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マヤーアブ(マヤーガマ)について

マヤーアブ(マヤーガマ)について

マヤーアブとは?

マヤーアブは糸満市字山城(緯度26.086121 経度127.684547)に位置する、太平洋戦争末期の沖縄戦の際に住民が避難した鍾乳洞です。

鍾乳洞(石灰洞)とは、石灰岩地域に雨水が石灰岩の隙間から地下へと流れ込み、川となり、その川の流れにより石灰岩が溶解されることで地下にできる広い空間のことをいいます。

鍾乳洞には、天井から水滴がたれたことにより、つらら状に成形された鍾乳石や洞床上にはタケノコ状に成形された石筍など特徴のある岩石があります。

マヤーアブ周辺地形はドリーネ(すり鉢状の窪地)となっており、そこにある小さな洞穴入り口から中に入ると、奥に広がる空間へとつながります。

当時の入口はもっと狭く、米軍の攻撃によって現在の大きさになったと言われています。

マヤーアブ内部は上部層、中部層、下部層の3 層に分かれて構成しており、奥行約30m、幅は最大17m、深さは最大20m ほどとなっています(マヤーアブの平面図・断面図を見る)。

現在は陥没や落石の危険性があり、見学は洞穴入り口までとなっており、マヤーアブ内部への立ち入りを禁止しています。ここでは内部の見学を点群データ映像と3Dツアーで内部見学の疑似体験ができます。

 

 

沖縄戦禍のマヤーアブと住民

昭和20年(1945年)3月、米軍の攻撃が始まると、山城の住民ほとんどがこのマヤーアブに避難しました。

5月下旬、米軍の進攻の激化に伴う日本軍の南部への移動で、山城から喜屋武にかけても大勢の日本兵が移動してきました。

その頃から、住民の行動は監視されるようになりました。また、日本兵の命令で、弾薬運びをさせられたこともあったそうです。(参考:糸満市史 資料編7戦時資料下巻)

ある時、マヤーアブに日本兵がやってきて、「ここは軍が使うから民間人は出るように」と軍刀を突きつけて命令しました。

住民は畳で入り口をふさいで拒否していましたが、やがて畳は軍刀で切り裂かれ、砲弾が飛び交う中、多くが追い出され、米軍の激しい攻撃の中を逃げ惑いました。

その後、マヤーアブは米軍の攻撃を受けることになりました。(参考:糸満市史 資料編7戦時資料下巻)

 

マヤーアブの中から見つかった遺骨遺留品

終戦直後は多くの遺骨や遺留品が見られたようですが、その後現在に至るまでに何度か遺骨遺留品収集作業が実施され、大部分がマヤーアブ内から取り出されました。

しかし、2021年1月当時、未だに遺骨や旧日本軍のものと思われる不発弾(手榴弾)、軍靴などがマヤーアブ内に残っていました。

なお、不発弾(手榴弾)は2021年1月、自衛隊によって回収されました。

遺骨遺留品の発見位置図(2021年1月時点)

2021年1月時点で確認された遺骨遺留品リスト

 

 

11.不発弾(手榴弾)

12.マヤーアブ内に残る遺骨

7.床に散乱する陶器片

 

マヤーアブでの戦争体験を知る

マヤーアブでは、戦時中当時の面影が残っており、今なお沖縄戦の悲惨さを物語る存在となっています。

ここではマヤーアブへ実際に避難した方々の戦争体験を知ることができます。マヤーアブへ実際に避難した方々の戦争体験談を掲載します。

 

糸満市史

 

 

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